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「現役世代支援」は少子化を促進する

で書いた件。「高齢者に手厚い社会保障予算を減らして現役世代を支援すれば出生力が上がる」という、妙な説をあちこちで耳にするようになったのだが、根拠がわからん。ふつうに考えると、

  1. 高齢者福祉を削る → 老後が不安だから貯蓄しなきゃ → 子供なんぞ育てる余裕はない
  2. 現役世代の支援 → その子供に要求される生活水準の上昇 → 子育て費用増加

という回路があって、どちらも出生力を引き下げる効果があるはず。

日本型福祉社会の亡霊?

まず 1. のほうから説明。

子供を育てるというのは莫大な費用のかかる仕事である。たとえば年間の可処分所得500万円の人の場合を考えてみよう。自分ひとりで全所得を使うなら年間500万円使える。これに対し、子供2人を設けて配偶者に専任で世話してもらい、自分も含めて合計4人の生活を1世帯で支えるとすると、生活水準は大幅に低下する。こういうときの生活水準の目安として可処分所得を世帯人数の平方根で割った「等価所得」(equivalent income) を使うのがふつうなので、これにならうと、生活水準はひとり暮らしの場合の半分、つまり年収250万円相当まで落ちることになる。この差額250万円が、年間に必要な「子育て費用」である。子供が成人するまでの20年間にわたってこれがつづくとすると、250万円×20 = 5000万円 が合計の子育て費用となる。逆にいえば、子供を持たずに年間250万円で生活すれば、20年後には5000万円+利子分の貯蓄を手にできることになる。

高齢者福祉が充実した社会で、基本的な衣食住が保障されている状態であれば、5000万円なにがしかの貯蓄を老後にのこしたとしても、それはちょっとぜいたくな生活ができるかどうかという程度のちがいだ。なくてもそれほど困るわけではない。だから、巨費を投じて子供を育てるという選択にも、それほど悲壮な決心をする必要はない。

高齢者福祉の削減は、老後の生活に対するこのような安心を掘り崩す。老後の基本的な衣食住さえ保障されないような社会では、収入がある間にどれだけの貯蓄をのこしておけるかが、老後に生きていけるかどうかの鍵となる。よほど裕福な人でないかぎり、老後に数千万円の貯蓄をのこすには、支出をいろいろ切り詰めないといけない。「子供が欲しい」欲の極端に強い人でない限り、「子育て」という超高額の買い物は、真っ先に切り詰めるべき対象として検討されるだろう。

……というのが通常の思考回路だと思うのだが、どうも「高齢者向けの予算を削れ」と主張する人たちはそう考えていないようだ。その背景にあるのは、おそらく「日本型福祉社会」的な発想なんじゃないかと思う。3世代同居を福祉の「含み資産」(出典は『厚生白書』1978年 {NCID:BN0247018X} らしい) とするアレである。「日本型福祉社会」の発想においては、親の老後を扶養するのはまず子供。子供が親と同居し、生活費の面でも家事・介護の面でも親の面倒を見ることが前提となっていた。このような社会観の持ち主なら、そもそも高齢者に対する社会保障を充実させたのが少子化の原因だ、これを削れば、自分の将来をみてもらえる子供を持とうとする欲求がかえって高まる、くらいに考えてもおかしくない。

「日本型福祉社会」型の発想でうまくいくかどうかは、現在の若者がそのような発想をどれくらい現実味のあるものとして受け止めているかによる。「自分の子供はかならず自分の老後の面倒を見てくれる」「所得の半分を貯蓄しておくよりも、そのお金で子供を育てておくほうが老後の備えになる」と考えている若者が何割いるか。もしそうした考えを持つ若者が圧倒的多数であるなら、高齢者福祉を削っても出生力は落ちない (かえって上がる) という仮説にも説得力が出る。「少子化対策」として高齢者向け予算の削減を主張する人たちは、まずそうした実証的根拠をそろえることからはじめるべきである。

生活保持義務と再生産平等主義

次に、2. の、現役世代支援は出生力に結びつかない、という件。

これは、まずは純粋な事実問題である。現在の日本社会において、裕福な人ほど子供をたくさん持っているという事実があるかどうか。身の回りを見渡してみれば、答えははっきりしている。貧乏な人はほとんど子供がいないとか、裕福な人はほとんど例外なく子沢山だとかいうような現象はないからだ。むしろ現代日本は、経済的な生活水準の高低にかかわらずほとんどの人が2人程度の子供を持つ「再生産平等主義」 (落合恵美子 1994『21世紀家族へ』有斐閣 {ISBN:4641182051} pp. 73, 97) の社会であった。現在の少子化も、貧しい人が子供を持たなくなったことで起こっているのではない。経済的な豊かさと出生力は関係ないのである。

だから「不況のおかげで現役世代が貧しくなってきたのが少子化の原因だ」というのは事実に反する。反するのだけれど、そういった言説がリアリティをもったものとして受け入れられるのは、個人的な感覚としてはよくわかる気がする。かくいう私も、収納できないモノがあふれて散らかった自分の部屋を見るたびに、「もっと広い部屋に引っ越せばモノを片付けてすっきりした生活ができるのに」という感覚を、どうしても持ってしまう。広い部屋に引っ越した後に待っているのが「モノの量がそれだけ増えて結局散らかる」「部屋が広くなった分だけ片付ける労力が大変」という結末であることが、過去の経験から容易に推測できるにもかかわらず。「今のような生活の苦しさでは子供が育てられない」が「もっと所得が上がれば子供を持てる」につながってしまうのも、おそらくこれと同じ種類の現象である。私たちは、経済的な条件そのものの変化はある程度正確に想像できるのだけれども、その時には自分の要求水準や行動様式そのものが変わってしまうだろうというところについては想像力がうまくはたらかない、ということなんだと思う。

現代日本の家族法では、親は未成熟の子に対して「生活保持義務」 (中川善之助 1928「親族的扶養義務の本質」{NAID:40003474515}) を持つことになっている。これは、親と同じ生活水準を子供に与える義務、とふつう解釈されているし、それは私たちが日常的に「親」に対して期待する感覚とも一致していよう。子育て費用が所得に比例するのは、この義務があるためである。年収500万円の人が子供2人 (+家事専従者1人) を持つための費用は5000万円、と先に書いた。年収1000万円の人についておなじ計算をすると、1億円になる。所得の低いときには「もし経済的な余裕ができたら与えてあげられれば幸せ」という程度の憧れであった財やサービスが、実際に所得が増えたときには「当然与えなければならない義務」になってしまう。子供にかけるお金は2倍になっているけれども、それは子供の人数の増加ではなく、子供ひとりあたり費用の増加としてあらわれる。この費用が負担できないと思う人は子供を持とうとしないだろうが、そういう人は低所得者にも高所得者にも同じ程度の比率で存在する。再生産平等主義が成立しているというのは、つまりそういうことなのだ。

今後の課題

以上の考察を発展させると、つぎのようなことがいえそうである。

第1に、出生力をあげるには、子育て以外に資源を使わないように人々を誘導する必要がある。人生の楽しみは子育て以外に何もないというディストピアをつくるのが最強の策である。そこまでいかなくても、個人がいざという時の備えのための貯蓄をしなくていいように各種社会保障を充実させておくことが、出生力を引き上げる効果を持つ。

第2に、生活保持義務は廃止すべきである。 90年ほど前に「生活保持義務」なる概念が考案された当時は、出生力は今よりずっと高く、福祉国家的な思想もなく、平等の思想も貧弱だったから、親に自身の経済力に応じた負担を強制してもそれほど不合理はなかったかもしれない。しかし現在では、このような負担が出生力を引き下げ、人口再生産を困難にしている。そもそも 日本国憲法生存権 を保障する義務を政府に課している (25条) し、 出自による差別も禁止 している (14条) のだから、親の経済力に頼らずに、一定の生活水準をすべての子供に保障する仕組みに切り替えていくべきであろう。とりあえずは、子供が生まれたときに1000万円程度を支給するようにしてはどうか。上で計算したように、これで子育て費用の全額を賄える人はあまりいないのだが、それでもいまよりはずっと楽になるはずである。そのようにして、親が子供を扶養しなければならないとか、親の経済力によって子供の生活水準を決めるべきという固定観念を取り除いていき、最終的には生活保持義務の全廃を目指す。

第3に、再生産平等主義は、おそらく捨てなければならない。生活保持義務を廃止するのは、簡単なプロセスではない。特に、子供の生活水準を親の生活水準にあわせるべきだという規範は、長い間残り続けるだろう。この規範の下では、たとえば子供2人に対して2000万円を支給したとすると、年収1000万円の人にとっては子育て費用1億円の2割程度しか補えない。親とおなじ水準の生活を子供にあたえなければならないと親が考えるなら、残りの8000万円は親の持ち出しで実現される。これに対して、年収200万円の人にとっては、2000万円の支給があれば子育て費用が全額賄えるから、生活水準の低下は全然ないことになる。子供に支払う金額は一定であっても、親に義務として課せられている費用負担の格差を考えれば、低所得層に手厚く支援をおこなうのとおなじことになってしまうのだ。もし子供への給付に出生力を引き上げる効果があるとすれば、それは低所得層に集中してあらわれるはずであり、結果として、低所得層の出生力が高く、高所得層の出生力が低い状態がもたらされることになる。それはダメだといっていると、出生力はいつまでたっても上げられない。

第4に、少子化対策とは、結局のところイデオロギー問題である。「日本型福祉社会」的な発想をとるかとらないかで、高齢者福祉削減の影響の予測が正反対になることはすでにみた。出生力をあげたいなら「生活保持義務」を廃止すべき、ということに異論のある人はあまりいないだろうが、生活保持義務はそれ自体が親子関係の「本質」(中川善之助) だという声も強く、廃止に対しては相当の抵抗が予想される。「再生産平等主義」も同様であって、これが存在する限りは、特定の層に集中して出生を促進する政策をとることが決して許されず、社会のすべての層に均等に効果を発揮する政策をとらなければならないという難度の極めて高い条件が課されることになる。私たちの社会はどのような社会であるか、どのような社会であるべきか、というイデオロギーが政策的な判断を大きく制約するのだ。そこらへんをみないで政策技術を論じても、出てくるのは、一貫性のない、役に立たない「政策提言」だけである。



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